おはようございます。
昨日までの話は高校3年生の最後の最後で進路を決めて大阪へ行くことを決めるってとこまででした。
今日は大阪時代初期の話をしていきます。
昨日も少し触れましたが、僕は柔道整復師の専門学校へ進学をという形で鹿児島から大阪へ引っ越します。
当時、大阪出発の見送りを家族にしてもらった後、新幹線の中で周りから心配されるレベルで号泣してました。
良き思い出です。
大阪でははじめは一人暮らし。
専門学校もしっかり通い、やることやってちゃんと成績もおさえて、大阪のバトルも出始めて順中満帆で文武両道していました。
しかし、徐々に専門学校へ通うことへ疑問が生まれてきます。
ことの発端はまず、専門学校側の必修で学会とか医療系に関する催し物が週末にあったのですが、同じくバトルも大体週末にあるので日程がかぶったときは僕はバトルの方に行っていました。
もちろん、専門学校の方は必修なのでそれに参加しないとペナルティが発生し、休んだ学会の倍以上の数の学会に行くことになります。
それに伴い、僕は人並み以上に医療系の学会や催し物に足を運ぶことになります。しかも自力で探さないといけない。
もちろんレポートとかもまとめないといけないので、学会の内容もしっかり聞くのですが、そういったことを繰り返しているうちに当時の僕の心境に少しずつ曇りがかかります。
僕は将来柔道整復師の資格をとって、整骨院の先生になるとはそこまで思っていなくて、なぜならダンスがしたかったから。だから国家資格をとって、手に職で安心、人生のセーフティネットになるという理由があって進学を決めました。
しかも怪我を自分でケアする知識もつき、周りの人も診れるようになるからダンスと両立するスキルとしてはアツいなと思っていました。
しかし、診療現場に限りなく近い先生方が集まるような学会に足を運び続けるうちに、これはダンスとの両立は難しいぞとなってきます。※当時の心境です。
なぜか。
現役の先生方は平日は来院される患者様を診て、休日は学会に行くなり自分の知識や技術の成長にコストを割いている。
そういった先生が、現場でも活躍できる。
そういった生の声だったり背中を見ていく中で、ダンスで結果を残そうとしている半端者が通用するわけないし、そんな状態で患者様を診るのなんて無責任すぎるなと思うようになってきました。
まあ、こんなんプロとして当たり前の話ですね。
なんなら僕が今やっていることなんてのはプログラミングとダンスを両立していることなわけですが、それはもうダンスで結果を多少は残せて国内外で色々自分の目で見てきた経験がある上での価値観。
でも、まだダンスでまともな結果を出せていなければ、ダンスの生計もたてれていない当時の僕にとっては、このまま学校に残って卒業して柔道整復師になって働く道を行くと、本当にやりたかったダンスができなくなる。
体が十分に動ける20代のうちに納得いくだけダンスにかけたいという風に考えました。
そして専門学校1年生が終わるくらいの時期に退学を決意します。
当然、中学の頃は同級生に嫌われてた時期ですら片道45分かけて山超えて中学に毎日通い、高校は3年間皆勤賞だったド真面目人間の僕にとって、退学なんてのは責任感を死ぬほど感じる選択でした。
ブチ切れられるの覚悟で鹿児島の両親に、懺悔の思いとダンスに悔いが残らないようコミットしたい旨をA4の紙を数枚にわたって書き綴って送りました。
専門学校の先生方にもその旨を伝え、正式に退学しました。
たしか春休みとかそのくらいの時期だったので同期の方々全員には直接伝えきれてないと思いますが、どうか当時の無礼をお許しください。
両親は想像とは裏腹に僕の意思を受け止めてくれました。
特に父ちゃん。
あのとき電話かかってきたときの父ちゃんの予想以上の反応は今でも覚えています。悔いのないように自分の道進めよ的な。
本当に感謝しています。
これで、もうやるしかねえモードに入るわけですが、ここからハヤトワン人生最大級に落ちぶれゾーンに突入します。
時間になりました。
また明日。